東日本震災の今を訪ねて(前編)
こんにちは! のぼうです。
先月、出張で2週間ほど東京に滞在していました。
週末にどうしようかと思案していましたが、せっかくの機会なので、東北震災の現状を見るべく仙台へ行ってきました。

東京から東北新幹線で仙台へ
仙台市内でレンタカーを借り、まずは仙台城へ
伊達政宗が慶長5年から2年余りで築いたお城だそうです。

昭和62年に放映された独眼竜政宗の題字です。

壮大な本丸北壁石垣です。
さて、お城を一巡りしてから、今日の最初の目的地、荒浜小学校に向かいます。

荒浜地区と閖上地区は仙台の中心部から車で1時間もかかりません。

HPから
「荒浜地区は、仙台市中心部から東に約10km離れた太平洋沿岸部 に位置しています。 海岸線に沿うように歴史ある運河・貞山堀が流れ、その周囲に約 800世帯、2,200人の人々が暮らす集落がありました。 1873(明治6)年創立の荒浜小学校は、海岸から約700m内陸に 位置し、震災当時は91人の児童が通っていました。」
「2011年3月11日に発生した東日本大震災において、児童や教 職員、住民ら320人が避難し、2階まで津波が押し寄せた荒 浜小学校。 津波による犠牲を再び出さないため、その校舎を震災遺構と して公開し、津波の脅威や教訓を後世に伝えていきます。
」



津波は、この小学校の2階まで押し寄せたそうです。

震災前の荒浜地区です。小学校の周囲には家が建ち並んでいます。
それが・・・

荒浜小学校の屋上から見た海方向の風景です。

こちらは住宅街を望む方向です。
どちらも何もありません。
全て津波に飲まれ流されたそうです。
小学校で当時のビデオが放映されていましたが、地震の後、多くの住民はそのまま自宅に留まっていたそうで、多くの方が家屋と一緒に流されたそうです。

道路脇のあちこちに家屋の基礎が残っています。
草で目立たなくなっていましたが、ここに生活があった痕跡です。

小学校の近くに慰霊碑がありました。

延々と続く防潮堤を少し歩いてみました。
かつて町があった方向を眺めてみると、得も言われぬプレッシャーを感じます。
慰霊碑に向かい、亡くなられた方々のご冥福を祈念して荒浜地区を後にしました。

HPから「閖上地区のご紹介 宮城県名取市は、仙台市の南に位置しており海も山あるとても住みやすい市です。閖上地区は、名取市の一番東側「閖上の赤貝」が有名な場所です。震災前の人口はおよそ2500世帯、約7000人が住んでおり、津波の影響では約850名の方が亡くなりました。津波の高さは最大9m。家族、友達、親戚、自宅、車、財産、仕事。失くしたものは数えることができません。」

津波復興祈念資料館「閖上の記憶」です。
この地区では、以前にもここに大津波が来ていたという歴史があり、災害の意識がもう少し高ければ、助かった命がたくさんあったはずと、もう二度と同じことは繰り返さないために、語り継ぐ活動を続けているそうです。

震災前の閖上地区です。

震災直後です。殆どの家屋が流されてなくなりました。

笹かまで有名な「佐々直」本店です。

画像の中央に建っているのは、慰霊碑です。

7年が経過した今も、復興工事はまだまだ終わりそうにありません。
ここから見える風景の中でも多くの方々が亡くなられています。
荒浜地区でもそうでしたが、被災地にいると、得も言われぬプレッシャーを感じます。
慰霊碑の前で亡くなられた方々のご冥福を祈念して閖上地区を後にしました。
この日は仙台市内に宿を取りました。 明日は南三陸町に行ってみます。
先月、出張で2週間ほど東京に滞在していました。
週末にどうしようかと思案していましたが、せっかくの機会なので、東北震災の現状を見るべく仙台へ行ってきました。

東京から東北新幹線で仙台へ
仙台市内でレンタカーを借り、まずは仙台城へ
伊達政宗が慶長5年から2年余りで築いたお城だそうです。

昭和62年に放映された独眼竜政宗の題字です。

壮大な本丸北壁石垣です。
さて、お城を一巡りしてから、今日の最初の目的地、荒浜小学校に向かいます。

荒浜地区と閖上地区は仙台の中心部から車で1時間もかかりません。

HPから
「荒浜地区は、仙台市中心部から東に約10km離れた太平洋沿岸部 に位置しています。 海岸線に沿うように歴史ある運河・貞山堀が流れ、その周囲に約 800世帯、2,200人の人々が暮らす集落がありました。 1873(明治6)年創立の荒浜小学校は、海岸から約700m内陸に 位置し、震災当時は91人の児童が通っていました。」
「2011年3月11日に発生した東日本大震災において、児童や教 職員、住民ら320人が避難し、2階まで津波が押し寄せた荒 浜小学校。 津波による犠牲を再び出さないため、その校舎を震災遺構と して公開し、津波の脅威や教訓を後世に伝えていきます。
」



津波は、この小学校の2階まで押し寄せたそうです。

震災前の荒浜地区です。小学校の周囲には家が建ち並んでいます。
それが・・・

荒浜小学校の屋上から見た海方向の風景です。

こちらは住宅街を望む方向です。
どちらも何もありません。
全て津波に飲まれ流されたそうです。
小学校で当時のビデオが放映されていましたが、地震の後、多くの住民はそのまま自宅に留まっていたそうで、多くの方が家屋と一緒に流されたそうです。

道路脇のあちこちに家屋の基礎が残っています。
草で目立たなくなっていましたが、ここに生活があった痕跡です。

小学校の近くに慰霊碑がありました。

延々と続く防潮堤を少し歩いてみました。
かつて町があった方向を眺めてみると、得も言われぬプレッシャーを感じます。
慰霊碑に向かい、亡くなられた方々のご冥福を祈念して荒浜地区を後にしました。

HPから「閖上地区のご紹介 宮城県名取市は、仙台市の南に位置しており海も山あるとても住みやすい市です。閖上地区は、名取市の一番東側「閖上の赤貝」が有名な場所です。震災前の人口はおよそ2500世帯、約7000人が住んでおり、津波の影響では約850名の方が亡くなりました。津波の高さは最大9m。家族、友達、親戚、自宅、車、財産、仕事。失くしたものは数えることができません。」

津波復興祈念資料館「閖上の記憶」です。
この地区では、以前にもここに大津波が来ていたという歴史があり、災害の意識がもう少し高ければ、助かった命がたくさんあったはずと、もう二度と同じことは繰り返さないために、語り継ぐ活動を続けているそうです。

震災前の閖上地区です。

震災直後です。殆どの家屋が流されてなくなりました。

笹かまで有名な「佐々直」本店です。

画像の中央に建っているのは、慰霊碑です。

7年が経過した今も、復興工事はまだまだ終わりそうにありません。
ここから見える風景の中でも多くの方々が亡くなられています。
荒浜地区でもそうでしたが、被災地にいると、得も言われぬプレッシャーを感じます。
慰霊碑の前で亡くなられた方々のご冥福を祈念して閖上地区を後にしました。
この日は仙台市内に宿を取りました。 明日は南三陸町に行ってみます。
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