あかりをつけましょ ぼんぼりに~♪ 雛巡り(後編)
こんにちは! のぼうです。
さて、雛巡り後編です。
「天領上下ひなまつり」を巡った翌週のこと、「崖の下のポニョ」のロケ地となった福山市の鞆の浦の「鞆・町並みひな祭」に寄ってみました。

画像は鞆の町並みで偶然見掛けた「ポニョ」です。(笑)

東広島市を出発してR2をひたすら東へ
鞆の浦に寄る前に、最近、築城400年記念事業で話題になっている福山城に立ち寄りました。
画像は、「天守北面の鉄板張り」の福山城天守閣です。鉄板張りは全国唯一とか。

福山城天守閣は昭和20年の福山空襲で焼失しましたが、昭和41年に市制施行50周年記念事業として、当時の市民の寄付により復元されたそうです。


画像上は、「伏見櫓」(現存)で、16011年前後に建てられたと推定される伏見城松の丸の東櫓を1620年に移築したものだそうです。
画像下は、「筋鉄御門」(現存)といい、本丸の正門に位置する櫓門です。「筋鉄」の名称のとおり、1階の扉や門柱に筋状の鉄板が打ち付けられているそうです。
広島城より随分と立派な城郭でした。(また、ゆっくり来よう!)
福山市街から鞆の浦を目指します。
芦田川に沿って県22を南下し、途中県71から県251福山グリーンラインに入ります。
福山グリーンラインは、沼隈半島東部にそびえる熊ケ峰などの標高300〜400m級の山々の尾根を通るため、福山市街地・鞆の浦や燧灘(ひうちなだ)の島々、尾道水道などを見ることのできる眺望の良い路線です。1985年から2018年まで自動二輪は通行禁止でした。


途中、朝陽の展望台からの眺めです。

鞆の浦にやって来ました。
白壁の人通りのない路地に(迷惑にならないように)バイクを停めて、まずはお昼御飯です。


お昼ご飯にやって来たのは、お好み焼き「ちょっとよんない」さん。鞆の浦らしいノスタルジックな店構えに誘われて店内へ
店内もしっかりノスタルジックな雰囲気、色紙の右上は中高年のアイドル「綾小路きみまろ」さん、最近、あまりテレビとかで見掛けないけど、お元気だろうか。

広島風でも関西風でもない・・・(のぼうと同年代と思われる)お好み焼き屋のおばちゃん曰く、進化の途上とのこと。
進化の状況を確認するため・・・叉来よう。
今でも十分に美味しいお好み焼きでしたよ。


人の流れが途切れたところを狙ってパチリ!



鞆の浦です。
真ん中の画像に映っているのが、鞆の浦のシンボルマークとも言える常夜燈です。
階段状に見えるのは雁木といいます。 以下HPから「潮の干満の差が大きい瀬戸内海の港では,いつでも積荷の揚げ下ろしができるように,雁木と呼ばれる階段状の船着場を造っています。 荷船から石造りの雁木に足場板を渡し,中仕と呼ばれた港湾労働者が,板の揺れにリズムをとりながら,重い荷物を運びました。
一部道路の拡張に伴い,姿を消した雁木もありますが,常夜燈に続く文化8年(1811年)に造られた大雁木をはじめ,港を囲むように雁木が長く延びています。 これだけ大規模な雁木を見ることができるのは,今では鞆だけです。」
だそうです。



「鞆の津の商家」に展示されているお雛様を見学です。
江戸時代末期の建物とのこと。展示されてるお雛様も格式高く見えます。

商家の中にあった電話機、何故か五月ちゃん(ですよね)のイラストが・・・。扉には四十番、当時は2桁の番号で電話機が特定できたのですね。

商家の直ぐ先にある「入江豊三郎本店 蔵(十六味保命酒)」で保命酒を購入、これは自分のためです。(笑)


続いてやって来たのは、「福禅寺 対潮楼(ふくぜんじ たいちょうろう)」です。
ちょっとHPから借用です。
「いろは丸事件」の際,坂本龍馬ら海援隊と紀州藩が実際に談判を行った場所。
対潮楼は今から約320年前の1690年ごろ,真言宗の寺院・福禅寺の客殿として建てられました。
座敷からは,穏やかな瀬戸内海に仙酔島や弁天島がぽっかりと浮かぶ,鞆の浦の素晴らしい眺めを一望することができます。
江戸時代,対潮楼は朝鮮通信使のための迎賓館として使われ,日本の漢学者や書家らとの交流の場にもなっていました。」
だそうです。

これが、多くの人々を魅了した江戸時代から変わることのない 対潮楼からの風景です。


面白写真が撮れました。(笑)

鞆の浦と仙酔島を結ぶ連絡船「平成いろは丸」です。
船旅は約5分、大人240円、なんと往復料金です。(次回は乗って仙酔島散策をしてみたい!)
ひとしきり鞆の浦を散策して帰路へ
思えば、近くて遠い備後の国 福山、まだまだ知らないスポットがありますね。次回はゆっくり散策してみたい!
親父の備忘録ブログにご訪問いただきありがとうございました。
さて、雛巡り後編です。
「天領上下ひなまつり」を巡った翌週のこと、「崖の下のポニョ」のロケ地となった福山市の鞆の浦の「鞆・町並みひな祭」に寄ってみました。

画像は鞆の町並みで偶然見掛けた「ポニョ」です。(笑)

東広島市を出発してR2をひたすら東へ
鞆の浦に寄る前に、最近、築城400年記念事業で話題になっている福山城に立ち寄りました。
画像は、「天守北面の鉄板張り」の福山城天守閣です。鉄板張りは全国唯一とか。

福山城天守閣は昭和20年の福山空襲で焼失しましたが、昭和41年に市制施行50周年記念事業として、当時の市民の寄付により復元されたそうです。


画像上は、「伏見櫓」(現存)で、16011年前後に建てられたと推定される伏見城松の丸の東櫓を1620年に移築したものだそうです。
画像下は、「筋鉄御門」(現存)といい、本丸の正門に位置する櫓門です。「筋鉄」の名称のとおり、1階の扉や門柱に筋状の鉄板が打ち付けられているそうです。
広島城より随分と立派な城郭でした。(また、ゆっくり来よう!)
福山市街から鞆の浦を目指します。
芦田川に沿って県22を南下し、途中県71から県251福山グリーンラインに入ります。
福山グリーンラインは、沼隈半島東部にそびえる熊ケ峰などの標高300〜400m級の山々の尾根を通るため、福山市街地・鞆の浦や燧灘(ひうちなだ)の島々、尾道水道などを見ることのできる眺望の良い路線です。1985年から2018年まで自動二輪は通行禁止でした。


途中、朝陽の展望台からの眺めです。

鞆の浦にやって来ました。
白壁の人通りのない路地に(迷惑にならないように)バイクを停めて、まずはお昼御飯です。


お昼ご飯にやって来たのは、お好み焼き「ちょっとよんない」さん。鞆の浦らしいノスタルジックな店構えに誘われて店内へ
店内もしっかりノスタルジックな雰囲気、色紙の右上は中高年のアイドル「綾小路きみまろ」さん、最近、あまりテレビとかで見掛けないけど、お元気だろうか。

広島風でも関西風でもない・・・(のぼうと同年代と思われる)お好み焼き屋のおばちゃん曰く、進化の途上とのこと。
進化の状況を確認するため・・・叉来よう。
今でも十分に美味しいお好み焼きでしたよ。


人の流れが途切れたところを狙ってパチリ!



鞆の浦です。
真ん中の画像に映っているのが、鞆の浦のシンボルマークとも言える常夜燈です。
階段状に見えるのは雁木といいます。 以下HPから「潮の干満の差が大きい瀬戸内海の港では,いつでも積荷の揚げ下ろしができるように,雁木と呼ばれる階段状の船着場を造っています。 荷船から石造りの雁木に足場板を渡し,中仕と呼ばれた港湾労働者が,板の揺れにリズムをとりながら,重い荷物を運びました。
一部道路の拡張に伴い,姿を消した雁木もありますが,常夜燈に続く文化8年(1811年)に造られた大雁木をはじめ,港を囲むように雁木が長く延びています。 これだけ大規模な雁木を見ることができるのは,今では鞆だけです。」
だそうです。



「鞆の津の商家」に展示されているお雛様を見学です。
江戸時代末期の建物とのこと。展示されてるお雛様も格式高く見えます。

商家の中にあった電話機、何故か五月ちゃん(ですよね)のイラストが・・・。扉には四十番、当時は2桁の番号で電話機が特定できたのですね。

商家の直ぐ先にある「入江豊三郎本店 蔵(十六味保命酒)」で保命酒を購入、これは自分のためです。(笑)


続いてやって来たのは、「福禅寺 対潮楼(ふくぜんじ たいちょうろう)」です。
ちょっとHPから借用です。
「いろは丸事件」の際,坂本龍馬ら海援隊と紀州藩が実際に談判を行った場所。
対潮楼は今から約320年前の1690年ごろ,真言宗の寺院・福禅寺の客殿として建てられました。
座敷からは,穏やかな瀬戸内海に仙酔島や弁天島がぽっかりと浮かぶ,鞆の浦の素晴らしい眺めを一望することができます。
江戸時代,対潮楼は朝鮮通信使のための迎賓館として使われ,日本の漢学者や書家らとの交流の場にもなっていました。」
だそうです。

これが、多くの人々を魅了した江戸時代から変わることのない 対潮楼からの風景です。


面白写真が撮れました。(笑)

鞆の浦と仙酔島を結ぶ連絡船「平成いろは丸」です。
船旅は約5分、大人240円、なんと往復料金です。(次回は乗って仙酔島散策をしてみたい!)
ひとしきり鞆の浦を散策して帰路へ
思えば、近くて遠い備後の国 福山、まだまだ知らないスポットがありますね。次回はゆっくり散策してみたい!
親父の備忘録ブログにご訪問いただきありがとうございました。
スポンサーサイト