風の吹くまま気の向くまま、ぶらり愛媛旅
こんにちは! のぼうです。
巷は、連日の夏日で梅雨という時期ですが、blogの記事はやっと新年度にはいってきました。(笑)
さて、再就職し、心機一転再スタートを切った4月上旬の天気の良い土曜日のこと。
何気に車で尾道方面に向けて走っていたら風が気持ちよくて、そのまま西瀬戸自動車道にのってしまい、気の向くままに愛媛県へ行ってきました。(今思えば、環境変化にストレス溜まってたかも(笑))


いきなりお好み焼きの画像ですが(笑)、松山市住𠮷にある三津浜焼き「那須」さんです。
朝9時から営業されているので、遅めの朝食&早めの昼食です。
三津浜焼きは一見広島風お好み焼きのようですが、ちくわや牛脂、天かすをいれたりします。
また一般的に麵は蒸した柔らかい麵を使うお店が多いのですが、那須さんは乾燥麺を店内で湯がいて使っていました。もっちろした食感で美味しかったですよ。



三津浜の町並みを少し散歩しました。
三津浜には、旧銀行通り、旧問屋街などの通りがあり、明治時代から大正時代にかけての建物が残っています。
3枚目の画像に描かれているのは、直ぐ近くにある今も三津と港山を結ぶ「三津の渡し」です。
年中無休の市営の渡し船。500年の歴史があるそうです。

三津浜を後にして、やって来たのは大洲城です。
大洲城には鉄砲隊があり、第三土曜日の午後、大洲藩鉄砲隊の演舞をみることができます。
ところでリンクさせて貰った大洲藩鉄砲隊のHPですが、「●2019年4月20日(土)」のところに、ちゃっかりのぼうが映り込んでいました。(笑)
どうぞ、探してみてくださいね。

大洲城を後にしてやって来たのは、「臥龍山荘」です。
画像は、対岸から望む不老庵です。



「臥龍山荘」とは・・・HPから借用
「この地を『臥龍』と命名したのは、大洲藩第3代藩主加藤泰恒が「蓬莱山が龍の臥す姿に似ている」ことから名付けたものと言われています。清流肱川湖畔のもっとも優れたこの景勝地に初めて庭園を築いたのは文禄年間、藤堂高虎の重臣、渡辺勘兵衛の時代に遡ります。その後、この地をこよなく愛した泰恒公は、吉野の桜、龍田の楓を移植し、庭に一層の風致を加えました。その後、歴代藩主の遊賞地でしたが明治以降は補修されることもなく自然荒廃していました。
現在の山荘は、明治時代に新谷出身の豪商で木蝋貿易に成功した河内寅次郎(常住地:神戸)が、老後の余生をここで過ごしたいと大洲随一の景勝地であるこの地に明治30年頃から10余年をかけて築造した別荘です。」
一言で言えば、お金持ちの別荘ですね。
画像上は庭園から臨む「臥龍院」、HPには類い希な名建築とありました。


大きな建物ではありませんが、一つ一つの部屋にこだわりが感じられます。
画像上ですが、うまく日の光を利用して幻想的な空間を作り出していました。


先ほど、対岸から眺めた「不老庵」です。

「不老庵」の竹網代張り天井です。
無粋で凡庸なのぼうの頭には、「いったい幾ら掛けたんじゃろ」と浮かんできます。

石垣の合間に、お地蔵様が納められていました。(合掌)

臥龍山荘近くで見掛けた「笹でできた虫たち」、なかなかの出来映えでしたよ。(ちなみに販売されていました。)


大洲の町並みを後にして、やってきたのは内子の町並みです。
画像は、江戸よりつづく愛媛・内子にただ一つ残る和蝋燭屋「大森和蝋燭屋」さんです。
内子の町並みは、幾度か訪問しましたが、このお店はまだ暖簾をくぐったことがなかったので、今回はのぞいてみることに。


いろいろなサイズや用途の和蝋燭が置かれていました。
さて、大森和蝋燭屋さんについてHPから借用しました。
「江戸時代から6代に渡って和蝋燭をつくり続けています。今では全国でも数えるほどになった和蝋燭の作り手として、
変わらない手法を受け継ぎ、6代・太郎と息子の亮太郎がいまにつないでいます。
わたしたちの1日は炭火でゆっくりと蝋を溶かすことから始まります。
ハゼの実の蝋をはじめ、すべて自然由来の素材を使い、手しごとで一本一本、手間と時間をかけてつくっています。」
ということで、店内からガラス越しに作業を見ることができます。
一本一本、溶けた蝋をかけていき(手作業ですよ!)丁寧につくられていました。(感動)

素材は全て天然由来のものでした。まさに先人の知恵の素晴らしさを感じました。
お土産に和蝋燭を買って、丁寧な説明にお礼を伝えてから、お店をあとにしました。

内子の町並みでの見掛けたかわいい虫たちです。


内子の町並みの西端に位置する「内子座」です。
屋根に乗っかっているのは猫でしょうか。
以下HPから拝借しました。
「大正5年に大正天皇の即位を祝い創建された内子座。木造2階建ての瓦葺き入母屋作り、純和風様式の本格的な芝居小屋として建設されました。回り舞台や花道、桝席、楽屋などがあり当時の建築技術の粋が集められた建造物です。
近年、老朽化のため取り壊されるところ、地元住民の熱意により改修が決定。昭和60年に復原工事が完了し、芝居小屋として再出発を果たしました。」とのこと。



画像中の二階客席ですが、手前にある舞台と正面には「大向(おおむこう)」と言われる低料金の客席があります。
定連や劇通が多いので、「大向をうならせる」とは芝居が乗できのことをいうそうです。(パンフから抜粋)
画像下、「花道」です。
客と役者が最も近づき交流できる場とのこと。歌舞伎劇場の特色だそうです。

のぼうに残された時間は短いけど、時にはこんな劇場の枡席に陣取って、歌舞伎とか観てみたいものです。(目標に加えとこ)

この日最後の訪問地は、内子の町並みから15kmほど離れた山あいにある 愛媛県喜多郡内子町石畳甲「弓削神社」です。
以前から気になっていましたが、今回、初めての訪問です。


案内によると1396年創建とのこと。
長さ22mにおよぶ、杉皮ぶきの屋根付き太鼓橋が弓削池に架かり、参道となっています。
今も氏子さん達が毎日、この橋を渡り、地域の五穀豊穣を祈念されているそうです。

弓削神社の近くで見掛けたしだれ桜です。(まだ春してます。)

良い天気でした。
しばしホッコリして帰路へ
西瀬戸自動車道をひた走り、その後はR2で東広島市へ
全くの無計画でしたが、時にはこんな小さな旅も面白い・・・。
気持ちも(少し)切り替えれたし(笑)
新しい環境にも馴染んでいかないとね(頑張れ!儂っ)
親父の備忘録ブログにご訪問いただきありがとうございました。
巷は、連日の夏日で梅雨という時期ですが、blogの記事はやっと新年度にはいってきました。(笑)
さて、再就職し、心機一転再スタートを切った4月上旬の天気の良い土曜日のこと。
何気に車で尾道方面に向けて走っていたら風が気持ちよくて、そのまま西瀬戸自動車道にのってしまい、気の向くままに愛媛県へ行ってきました。(今思えば、環境変化にストレス溜まってたかも(笑))


いきなりお好み焼きの画像ですが(笑)、松山市住𠮷にある三津浜焼き「那須」さんです。
朝9時から営業されているので、遅めの朝食&早めの昼食です。
三津浜焼きは一見広島風お好み焼きのようですが、ちくわや牛脂、天かすをいれたりします。
また一般的に麵は蒸した柔らかい麵を使うお店が多いのですが、那須さんは乾燥麺を店内で湯がいて使っていました。もっちろした食感で美味しかったですよ。



三津浜の町並みを少し散歩しました。
三津浜には、旧銀行通り、旧問屋街などの通りがあり、明治時代から大正時代にかけての建物が残っています。
3枚目の画像に描かれているのは、直ぐ近くにある今も三津と港山を結ぶ「三津の渡し」です。
年中無休の市営の渡し船。500年の歴史があるそうです。

三津浜を後にして、やって来たのは大洲城です。
大洲城には鉄砲隊があり、第三土曜日の午後、大洲藩鉄砲隊の演舞をみることができます。
ところでリンクさせて貰った大洲藩鉄砲隊のHPですが、「●2019年4月20日(土)」のところに、ちゃっかりのぼうが映り込んでいました。(笑)
どうぞ、探してみてくださいね。

大洲城を後にしてやって来たのは、「臥龍山荘」です。
画像は、対岸から望む不老庵です。



「臥龍山荘」とは・・・HPから借用
「この地を『臥龍』と命名したのは、大洲藩第3代藩主加藤泰恒が「蓬莱山が龍の臥す姿に似ている」ことから名付けたものと言われています。清流肱川湖畔のもっとも優れたこの景勝地に初めて庭園を築いたのは文禄年間、藤堂高虎の重臣、渡辺勘兵衛の時代に遡ります。その後、この地をこよなく愛した泰恒公は、吉野の桜、龍田の楓を移植し、庭に一層の風致を加えました。その後、歴代藩主の遊賞地でしたが明治以降は補修されることもなく自然荒廃していました。
現在の山荘は、明治時代に新谷出身の豪商で木蝋貿易に成功した河内寅次郎(常住地:神戸)が、老後の余生をここで過ごしたいと大洲随一の景勝地であるこの地に明治30年頃から10余年をかけて築造した別荘です。」
一言で言えば、お金持ちの別荘ですね。
画像上は庭園から臨む「臥龍院」、HPには類い希な名建築とありました。


大きな建物ではありませんが、一つ一つの部屋にこだわりが感じられます。
画像上ですが、うまく日の光を利用して幻想的な空間を作り出していました。


先ほど、対岸から眺めた「不老庵」です。

「不老庵」の竹網代張り天井です。
無粋で凡庸なのぼうの頭には、「いったい幾ら掛けたんじゃろ」と浮かんできます。

石垣の合間に、お地蔵様が納められていました。(合掌)

臥龍山荘近くで見掛けた「笹でできた虫たち」、なかなかの出来映えでしたよ。(ちなみに販売されていました。)


大洲の町並みを後にして、やってきたのは内子の町並みです。
画像は、江戸よりつづく愛媛・内子にただ一つ残る和蝋燭屋「大森和蝋燭屋」さんです。
内子の町並みは、幾度か訪問しましたが、このお店はまだ暖簾をくぐったことがなかったので、今回はのぞいてみることに。


いろいろなサイズや用途の和蝋燭が置かれていました。
さて、大森和蝋燭屋さんについてHPから借用しました。
「江戸時代から6代に渡って和蝋燭をつくり続けています。今では全国でも数えるほどになった和蝋燭の作り手として、
変わらない手法を受け継ぎ、6代・太郎と息子の亮太郎がいまにつないでいます。
わたしたちの1日は炭火でゆっくりと蝋を溶かすことから始まります。
ハゼの実の蝋をはじめ、すべて自然由来の素材を使い、手しごとで一本一本、手間と時間をかけてつくっています。」
ということで、店内からガラス越しに作業を見ることができます。
一本一本、溶けた蝋をかけていき(手作業ですよ!)丁寧につくられていました。(感動)

素材は全て天然由来のものでした。まさに先人の知恵の素晴らしさを感じました。
お土産に和蝋燭を買って、丁寧な説明にお礼を伝えてから、お店をあとにしました。

内子の町並みでの見掛けたかわいい虫たちです。


内子の町並みの西端に位置する「内子座」です。
屋根に乗っかっているのは猫でしょうか。
以下HPから拝借しました。
「大正5年に大正天皇の即位を祝い創建された内子座。木造2階建ての瓦葺き入母屋作り、純和風様式の本格的な芝居小屋として建設されました。回り舞台や花道、桝席、楽屋などがあり当時の建築技術の粋が集められた建造物です。
近年、老朽化のため取り壊されるところ、地元住民の熱意により改修が決定。昭和60年に復原工事が完了し、芝居小屋として再出発を果たしました。」とのこと。



画像中の二階客席ですが、手前にある舞台と正面には「大向(おおむこう)」と言われる低料金の客席があります。
定連や劇通が多いので、「大向をうならせる」とは芝居が乗できのことをいうそうです。(パンフから抜粋)
画像下、「花道」です。
客と役者が最も近づき交流できる場とのこと。歌舞伎劇場の特色だそうです。

のぼうに残された時間は短いけど、時にはこんな劇場の枡席に陣取って、歌舞伎とか観てみたいものです。(目標に加えとこ)

この日最後の訪問地は、内子の町並みから15kmほど離れた山あいにある 愛媛県喜多郡内子町石畳甲「弓削神社」です。
以前から気になっていましたが、今回、初めての訪問です。


案内によると1396年創建とのこと。
長さ22mにおよぶ、杉皮ぶきの屋根付き太鼓橋が弓削池に架かり、参道となっています。
今も氏子さん達が毎日、この橋を渡り、地域の五穀豊穣を祈念されているそうです。

弓削神社の近くで見掛けたしだれ桜です。(まだ春してます。)

良い天気でした。
しばしホッコリして帰路へ
西瀬戸自動車道をひた走り、その後はR2で東広島市へ
全くの無計画でしたが、時にはこんな小さな旅も面白い・・・。
気持ちも(少し)切り替えれたし(笑)
新しい環境にも馴染んでいかないとね(頑張れ!儂っ)
親父の備忘録ブログにご訪問いただきありがとうございました。
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